何代か前の先祖は、神主をやっていた。落人みたいな
閉鎖的なコミュニティで生まれ育った。地域に知らない人はひとりもいない。
隣のうちの茶箪笥に何が入っているかも知っているような関係性である。
衆人環視、村八分、紐帯、村落的生活様式、こんなワードが思い浮かぶ。
ご近所で呼び合うのも、独特の呼び方で、氏名でも、字でもない、不思議な隠語のような
呼び方であった。よそ者は理解できないことである。
子供会の集まりは、神社の敷地で殆どの子供たちが、神社の神主家系であったと思う。
皆で、ご神体の山に登り、皆で一斉に走って山を下るというトレイルラン的な遊びをしていた。
とても危険であり、不敬であったかもしれない。ありがたいことだが誰もケガはしたことがない。
霊感のある方は、あそこの神社は怖いとか、行きたくないとか、言うが、日中でも鬱蒼としていて
確かにコワイ。
神社は、敷地に森や林や水辺があることで人々の穢れを浄化しているのではないかと思う。
明るい神社も参拝に行くと楽しいので、それも好きであるが、人を寄せ付けないような
畏怖するようなザ神域みたいな神社も好きである。
どこの神社もそうだが、鳥居をまたぐと神域になるので、心して入るようにしている。
神社の石ひとつ、どんぐりひとつも持ち帰ってはいけないと、子供の頃から教えてられている。
あと、親から言われたことは、神社では、願はかけるな、である。
捧げるのは、無心の感謝である。これが難しい。
「隣の家のポチの目の病気が早く治りますように、あと、浅間山が噴火しませんように」と
子供の頃は、山の噴火が怖くて神社で願をかけていた。