西村賢太先生の『苦役列車』を読んで思うのは、この主人公は、西村氏であり、己の
満たされない思いをぶつけている。文を綴る動機づけに内なるものの怨恨を
発露させ昇華させる。しかし、作家大先生になった西村氏のその後を愉しみに
していたのに、早逝してしまい残念である。生前、西村氏のお父さんが亡くなれば
もっとすごい小説が書けると仰っていたのが記憶にある。作家になればまわりの
対応もかわるであろう。高級キャバレーにも行けるであろうし、今までとは違ってくる。
苦役列車を読んでかさなるのは、
私がお世話になっている地域では、13年前は、交差点の電柱の
後ろあたりに誰かが呑んで捨てたワンカップの空き瓶が置いてあった。私は、それをワンカップ
おじさんの仕業と決めつけていた。ワンカップおばさんかもしれないが。おじさんにした。
ワンカップおじさんは、この界隈に出没しているらしく、よく電柱の陰に置かれているのをみた記憶
がある。強風が吹き隠れていたワンカップの空き瓶が転げて車に無惨に轢かれ臓物が散らばったかのよ
うに破片を道路中にまき散らしていた。
数十年たち古い家は世代交代や売却などが進み、この地域は、アッパー層が住む魅力的なエリアとなっ
た。現在もそうだが邸宅が増え続けている。散歩していても高級車率が高いエリアである。
それにともないいつの頃からか、ワンカップが電柱に隠れているのを見なくなった。ワンカップ
おじさんも淘汰されたか、改心したのか、いなくなった。
『苦役列車』の主人公の貫多もいつか淘汰されてしまうのではないかと思うのだ。
西村氏の満たされぬ思いが、作家大先生になることで、どう変化していくのか、その後を読みたかった
が、残念である。
私もいつかワンカップとあたりめとニーチェが似合う人物になりたいものだと思う。
ワンカップを買う練習から始めようと思う。