中川の仏壇 たまには仏壇やらしい文章を綴ってみた - 中川の仏壇
ブログ モダンミニ仏壇

2025.10.12

たまには仏壇やらしい文章を綴ってみた

三連休、祭り。お客様が来ないことがほぼ確約されている過去の統計から。

それでも店で私は、いつもの定位置に座って窓の景色を眺めている。どんな罰ゲームだよ。

世の中は、前橋祭りでディズニーパレード市内に10万人規模の来訪者があるって言われているのに、

私は、こうやってブログを綴っている。

仏壇やらしいことをたまに書いてみようと思う。位牌を彫っている。私が彫刻刀で彫っているわけじゃないよ。ロダンっていう機械が彫る。PCに文字を打ち込んでレイアウトつくって彫る。この位牌彫りの仕事というのが、私には重い。「よし、位牌彫るぞ」っていう気持ちにならないと向き合えない。面倒とか、難しいとか、そういうことじゃないんだ。「この方はどういう人生だったのかな」ってそこはかとなく思って彫っているからだと思う。ただ、彫るという動作だけだったら、それほど重くない。ただ、そこにその人の人生を想うと、たった20cmばかりの札板が重くかんじるんだ。

生前、お線香を買いにきてくださった方が、最後は、ご位牌のご注文でお会いしたりする。「生前は、よくしていただきありがとうございます」という気持ちで彫る。「今、お幸せですか?あ、お幸せですね、あたりまえですね」って会話している。あまり向き合ってもいけないとは思うんだ。同じカテゴリーの仕事をしている友人がいる。とても大切な友人で、時折、体がしんどそうだから、会うと軽く肩もみなどしている。どんな景色をみているのか、どんな物語を知っているのか、きいても言葉少なになり語らない。そういうところに寄り添いたくなる。しんどさもあると思うし、こわさもあるであろう。友人は、家の風呂に入りたくないと言っていた。理由は、さまざまであろう。多分、公共浴場で他人の声が響く、生身の人間の呼吸や体温がある、「自分、生きている」って体で感じられる場所なんであろうなと思う。家の風呂、狭くて、ひとりで入る。うっかりすると溺れても気づいてもらえないリスクもある。誰かの体温を感じられる場所での入浴は、友人にとって生をとりもどすための儀式。私も友人に会うと、仕事のことは極力触れず、楽しいことを話すようにしている。私は、板を通して、人の死に触れている。友人は、物体となったヒトガタをとおして死に触れている。おたがい、毎日、哲学書を読まされているような仕事だ。会ったときくらいは、人のぬくもりを感じて、ともに長生きしようって伝えている。

CONTACT US

中川の仏壇 たまには仏壇やらしい文章を綴ってみた - 中川の仏壇